かれこれ1年ほど
少なくとも今年の3月より前から
ずっと同じ文章を書いている.
冷静になって自分の書いたものを見直してみると
(このプロセスは幾度も踏んだつもりでいるのだが)
如何に自分が頭を使わずに文章を書いているのか,が
明らかに見えてきてしまう.
特に使わなくていい場合,どころか
結構頑張れよというような時でも
全く自分でモノを考えていない事が,自分の場合多々ある.
その事を,知ってはいるつもりだったのだが
本気で直そうとしてこなかった結果が,この一年ということになる.
この文章を,私は,ずっと
ある先輩と一緒に,ちくちく直して来た.
自分の書いた文章でさえ,イントロだけ6時間も読んでいると吐きそうになるのに
先輩にとっては,(他人の書いたへたくそな文章など)
本当に本当に気の遠くなるような作業だったに違いない.
これは後輩と話をするようになって,やっと気付いた事なのだけれど
(なので,後輩くんたちに本当に感謝しているのだけれども)
どんなに優秀な子たち,頭のいい子たちでも
頭をつかう事を明らかに要求されている,わけではない場合において
こちら(先輩)の出方を,ただ,待っている事がある(ように見える).
少なくとも私の場合,完全にこのケースで
ここ,どう思う?
と,尋ねられると,
あ,そうですね,えーと...
と,考えるのだが
実際には頭が動いていない.
じゃあ,こうじゃないかな?
と,提案されるのを,ただ待っているのである.
この"空白"状態を見抜けるようになってから
自分が先輩側に立って話をするとき,
やばい,自分が何とかしなくちゃ
という思いと
これじゃあ,この後輩にとって意味が無い
という思いを抱えるようになった.
特に苛立ちや焦燥感に駆られるようなことは(自分も同類なので)無いのだけれど
少なくともどこかで,自分で考える力を手に入れないと
これは,教育
下手をすると洗脳になってしまい
少なくともディスカッションではなくなってしまう.
私は,自分自身が教育をする立場にあるとは到底思えないので
出来ればディスカッションを出来る相手が欲しい.
そういう意味では,この一年
辛抱強く教育を続けてくれた先輩には
全く頭が上がらない.
もし,その先輩が,
めんどくさいから早く終わらせよう9割としても
いつかはディスカッション相手になりはしまいか?と
1割でも思ってくれていたならば
自分は本気で頭を使う事を
少なくとも本気で試みなければいけないだろう.
大事なのは,完成された文章ではなく
文章を完成させる能力を手に入れる事
あるいはそこに近づく事
せめて近づこうとする事,なのだろう.
百聞は一見に如かず
百見は一考に如かず
百考は一行に如かず
百行は一功に如かず
自分はいつか,人に何かを
教えられるようになるのだろうか?
ちなみに
百功は一幸に如かず
らしいけれど.
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