タッチセンサの普及に伴い、機械式のボタンを配置する必要性が減った結果、
タブレットなどが汎用機として様々な用途に導入されるようになりました。
例えば今や、専用コントローラを握りしめなくても
スマホでゲームが可能になったわけです。
さてこの便利な方向への進化が
コミュニケーションコストを上げている、という話。
まず、
汎用性のメリットについて改めて確認しておきます。
沢山のコトが1つのモノで実現可能になったことで、私たちの荷物は減りました。
例えば、昔は旅行に行くと言えば
地図を印刷したり
ガイドブックを買ったり
電子辞書を忍ばせたり
旅先で読む本を選んだり
そんなことをしていたのではないでしょうか。
それが今や携帯電話1つで実現可能
これは素晴らしい進歩と言えるでしょう。
そしてデメリットの話。簡単な例を出します。
あなたが誰かと一緒に居るとき、
その人が唐突にスマホをいじり始めました。
さぁ、あなたはには難しい推測が課せられます
* いまの話題について、何か検索しているのか?(ポジティブ)
* 誰かから急に、連絡が来たのか?(ニュートラル)
* 自分との話に飽きて、別の事を始めたのか?(ネガティブ)
以前なら、それぞれについて多少なり動作が異なっていて
それを手掛かりに推測出来た筈です。
今やそれは難しい。
もっと単純に、
目の前で電子書籍を手にしている人が
純文学を楽しんでいるのか漫画を読んでいるのか雑誌を眺めているのか、
つまりその人が「どういう人」なのかが、解りにくくなっています。
(ここから先は、極めて個人的な見解です)
こうした時代、誰もが同じ動作をする世界で、
私たちはどうやって気の合う人を探せば良いのでしょう。
その一つの方向性が
観察対象者が、観察者へ向けて行う、
記号的な情報の開示であるように思われます。
「僕は⚪⚪というバンドが好きです」
「昔、△△をやっていました。」
この観察行為の致命的な点は
出てくる情報が、観察対象者によって選別されている
意図の有無に関わらず、極端なカテゴリ化がなされている
という側面にあります。
つまり
観察者がどんなに精度良く、観察対象者をモデル化しても
それが現実の姿に近づくとは
限らないのです。
(それが幸せに繋がるのかどうかは、また別のこととして)
いやはや、大変な時代です。
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